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カタックダンスは、北インドで2500年の歴史を誇る古典舞踊で、紀元前5世紀ごろ、カタカと呼ばれる身分の高いヒンドゥー教の語り部達が神話や英雄物語を伝導して歩いたことが起源とされています。

16世紀、ムガール帝国支配下の宮廷内 16世紀以降、北インド一帯がムガール帝国の支配下に置かれるようになると、カタカ達はその芸術性を認められて宮廷に庇護され、華やかな宮廷舞踊が繰り広げられようになりました。当時世界の中心とも言われるほど栄えたエスファファーンを首都とするサファビー朝ペルシアの豪華絢爛な王朝文化を模したムガール宮廷では、宮廷語としてペルシャ語が用いられ、現地語とペルシア語の混成語であるウルドゥー語が形成されました。
宮廷人は美しいウルドゥー語の詩を競いあうようにして作り、音楽や舞踊もペルシャ文化の影響を受けて大きく発展していきました。

ラクナウの踊り子
18世紀以降、弱体化していったムガール帝国に隣接するアワド藩王国(現在のラクナウ)では、世界一の繁栄を夢見た太守ワジド・アリ・シャーのパトロネージの下、北インド宮廷舞踊は全盛期を迎えます。
 アワド藩王国の街
太守自らが、当時絶大な人気を誇っていたアーティスト:カルカ、ビンダディンをベナレスから迎えて踊りを習い、ハーレムの女性で舞踊団を結成してヒンドゥー神話の舞踊劇を発表するなど、音楽舞踊人のために湯水のようにお金が遣われました。
しかし、享楽の時は長く続かず、太守は英国によって莫大な年金と共にカルカッタに追放され、その後、インド史上有名なセポイの反乱が起こり、全インドは英国統治時代に入ります。
 英国統治時代のドゥルガ・プジャー(カルカッタ)
イギリスの直轄地となったインドの首都カルカッタ(冬期)は音楽の都として栄えるようになり、踊り子達は英国人という新たなパトロンを見つけ、人生を謳歌したと言われています。
 ラジャスタン藩王国でのカタックダンス(細密画)
アワドやラジャスタンでも親英の藩王の庇護によって、北インド文化は爛熟期を迎え、歴史に残る優れた芸術家達を輩出しました。
 ベナレスのタワーイフ
ウルドゥー語ではタワイフと呼ばれた当時の踊り子達は幼いときから優れた師について教えを受け、師から許しを得て宮廷に上がり、高貴な宮廷人のサポートを受けて高い教養と芸術で人々を魅了しました。
 「Shan-e-Mughal」カタック・ケンドラによるダンスドラマ アクバル皇帝の宮殿でのカタック・ダンス
インド独立後、「カタカ」が起源とされるこの宮廷舞踊は、新政府によってカタックダンスという名前を新たに与えられ、インド人間国宝パドマビブ―シャン・パンデット・ビルジュ・マハラジ師によって、より洗練された舞台芸術へと発展していきました。
師は、これまでの、どちらかといえば詩とアビナヤ、シュローカ中心の舞踊に、音楽師泣かせの複雑なリズムを新たに 加えることによって、全身でリズムを表現していくという独自の テイストを作りだすことに成功しました。
さらに、直線的な動きの中でより優雅に見え、しかも切れの良い動きも創出しました。師の振り付けによる群舞は高い評価を得、今日、カタックダンスはインド4大舞踊の一つとしてゆるぎない地位を得ています。

巨匠パンデット・ビルジュ・
マハラジ
一説にはフラメンコの原型とも言われるカタック・ダンスの基本姿勢は直立姿勢で、足にグングルと呼ばれる真鍮の鈴を100個から200個巻いて踊ります。
軽快なステップ、切れの良い旋回、アラベスク模様を象ったといわれる優雅な所作、そして口唱歌を特徴とするこの舞踊は日本の家元制のように一つの家族が代々伝えており、主な流派にヒンドゥー文化とイスラム文化が融合して形成されたラクノウ派、ヒンドゥー教徒によって創られていったジャィプール派、バナーラシー派などがあります。
最も古い流派であるラクノウ派の現在の家元は、7代目のパドマビブ―シャン・ビルジュ・マハラジ師。
師の振り付けは、非常に優雅で美しい高度な変拍子で成り立っています。 カタックダンスのアイテム
 クリシュナとラーダ(細密画)
二つの文化が融合して形成されたラクノウ派カタックダンスは、ヒンドゥー神話起源の踊り(バンダナやストゥティー、トゥムリ)と、踊りの導入部分となるメディテーション・アイテム、リズムに合わせて幾何学的に踊っていく純粋舞踊、タラーナ(楽曲)やガト等のムガールアイテム、ウルドゥー(ヒンドゥー)語の詩に合わせて踊っていくガザル、トゥムリなどがあります。
ジャイプール派はガネーシャ神&シバ神、ラクナウ派ではクリシュナ神話が主に踊られています。
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